変態ですね。

Van Gohg『糸杉』に寄せて

1995年 ヨーロッパを巡る旅・北部編


ヨーロッパの美術館たちを巡る旅
乗ってきたので続けます。

ゴッホせんぱい好きにとって
メインはオランダ

なぜなら
せんぱいが誕生し、
せんぱいの名を冠した美術館があり、
せんぱいの作品を集め、伝えることに力を尽くした
コレクターが作った美術館があるから。

ざっくり行きます。

ゴッホは絵を描き始めるまでに
画商、牧師など様々な仕事を経験しますが、
ついに本格的に絵を描き始めるのが27歳
その人生を終えるのが、37歳。

その間に描いた絵は、2,000点以上
晩年の5年の間にその多くを描いたといわれています。
単純に作成期間を10年としても、
2、3日に1枚仕上げる、恐ろしいペース。
ちなみにモネせんせいは86年の生涯で
約2,000点と言われています。


せんぱい、描きましたね。

もう、こころのままに描きに描いて
腕があと4本くらい
欲しかったんじゃないでしょうか。


作品はご存じのとおり、世界中に渡っていくのですが
その中でも所蔵点数が最大なのが
アムステルダムにある「ファン・ゴッホ美術館」です。
油絵だけでも200点所蔵しています。

ゴッホの画家生活を支援した、弟で画商のテオは
兄亡き後、後を追うように亡くなり、
所蔵していた作品はテオの妻・ヨーへ渡ります。

せんぱいは筆まめで
描いている絵の説明、考えていること、また、
お金送ってくれない?と弟へ手紙を送っています。

ヨーは作品のみならず、そういった書簡も
義兄の作品を読み解く資料として大事に保管し、
実際に書簡を編集し、出版しています。

ヨーが亡くなると、それらの作品、資料は
産まれた時に『アーモンドの木』を貰った
ヨーの息子で甥のフィンセントへ託され、
(名前はせんぱいからもらいました・涙)
美術館が設立されました。

当時、いちばん、行きたかった美術館です。
旅を計画して2年、全くブレずに働いて
お金を貯めることができたのも
ここに行くと決めたから。

案の定、泣いてました。

『JOURNEY』


え? 作品ですか?
涙がどんどこでてきて
視界は始終、水槽の向こうのようで・・
ほとんど覚えていません。

さて、ゴッホが亡くなってから19年後。
その名が知られるようになるのはもう少し先、という頃
ヘレーネ・クレラー=ミュラーが
はじめてゴッホの絵を買います。

この時、彼女は39歳。
まるで、せんぱいの意志を継ぐかのように。

やばい!人間の内面を表現する画家!
(たぶん)そう思った彼女は、
徐々にコレクションを増やしますが
大病を患ってしまいます。

もし生き残ることができたなら、
コレクションを共有するための
美術館を作る、と決めます。

人生のやり残しに気づいたせいか病を乗り越え、
後世に残る作品を精力的に収集していき、
モネやルノワール、ピカソなど
11,000点を超えるコレクションを築き上げました。
ゴッホ作品は、90点の油彩画と180点の素描画となり、
クレラー=ミュラー美術館
ファン・ゴッホ美術館に次ぐ
コレクションとなりました。
作品では『糸杉』、『夜のカフェテラス』 が有名です。


なーんて、
95年の当時の知識は、この半分くらいでした。

知っていればもっと楽しめたのでしょうが
若いわたしには本物の前に立っている、
そのことを受け止めることが精一杯で
おそらく、十分でした。

絵に向き合うと
わたしと同じ位置に、かつてゴッホせんぱいがいて
腕を伸ばし、握った絵筆を動かしていた
そう、考えるだけで・・・


変態ですね。



それでは、クレラーミュラー美術館所蔵の
ほんとはわりと深刻なテーマらしいけど
キュートにしか見えないこちらの作品でおわかれです。

さよなら

さよなら

絵を描いて写真を撮り、文章にして、まわりのモノ・コトを描き留めます。